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熊本地震から2年、地震直後の生活

14日の余震の段階では、熊本市中心に被災地と呼べるほどの被害は無かった。部屋で寝たし、日記にも記録がある。しかし、16日は日記も書いていない。それどころではなく、完全に被災地と呼べる被害があったからだ。

明るくなってから、続々被害状況が明らかになる。阿蘇大橋が落ちたのも、朝になってからニュースになったと思う。東日本大震災との違いは、2発とも夜だったこと。特に2発目は取材陣もいるのに、真夜中では灯りのある範囲しか見えない。市中心の熊本城だって、朝になってビックリ。後付けで、夜中に煙をあげる熊本城が写っていた。まさか火災でもなかろうにと思われた煙も、屋根の土煙だったことが明るくなって分かったのだろう。

とにかく、被災地からすると情報があることがありがたかった。益城のように壊滅的な場所があること、そちらが優先されるであろうこと、など、スマホでタイムリーに確認できる。電話が繋がらなくてもSNSで知り合いに無事を伝えられる。何か、足りてないものはないか?と友人からのメールも届く。30年前では、想像できない情報化社会であることを実感した。

不思議なもので、明るくなると人間はホッとするようだ。断続的な揺れも夜ほど怖くない。戻る気になれないマンションにも、様子を見に行く気になった。昨日片付けたばかりなのに、また元に…いや、それ以上だった。テレビも大理石の食卓台も1メートル以上横滑りしていた。食器棚が倒れてガラスや陶器が散乱。まだ、余震が続く状況なので、すぐに片付ける気にはなれなかった。

電気、ガス、水道の全てのライフラインが全て止まったが、電気が一番早く回復したと記憶している。水道も割と早かった?いや、忘れた。とにかく、動きが取れない。いろんな救援活動が行われていると考えると、車を動かして活動を妨げたくないし、無駄に渋滞に捕まるのも嫌だと思って、徒歩で周囲を見て回った。

徒歩で行ける範囲でも、写真のような現場があるけど、全体的に街の様子が一変したような感じは無かった。後からわかったことだけど、家が新しい古いより、立地によって被害の大小があったらしい。倒壊した新築の家の側に、古い家が無事で立っているようなこともあったとか。断層による影響が大きかったということだ。

自分の住むマンションが倒壊しなかったことに感謝したい、と思った。あちこちに亀裂は走っていたけど、傾きもなくまっすぐ立っていてくれる。ありがたい。昼間は、部屋で過ごしたけど、夜になると娘が、外で寝たいと言い出した。恐怖が蘇ってきたのだろう。義理の父母の家に避難することにした。義父母のマンションは2Fだからか、被害らしい被害は見られなかった。こうして、寝床が得られる私たちは恵まれている。ほとんどの人は、話題になった車中泊で過ごしていたと思う。目の前に家があるのに駐車場の車の中で寝る人たちが大勢いた。17日の夜のことだ。

翌、18日から私は仕事に戻った。と、いっても、どこの会社も営業どころではない。仕事をできるような環境に戻す仕事だけだ。お金儲けより人助けをする企業さんが多かったと思う。私のクライアントも予定の会議を中止し、炊き出しに出ていた。

コンビニの棚はガラガラだった。商品が入荷してもすぐになくなってしまう。しかし、地元商店街の炊き出しや、避難所への配給などでどうにか食べ物は得られた。みんなが助け合って暮らしていた。ただ、ガスがないので風呂に困った。近くの銭湯が無料開放されたが、3時間待ちで断念した。18日から日記をつけているけど、風呂に入ったのは10日後。ガスが来たのが2週間後の27日だった。

家があって、ライフラインがあれば、どうにか安心して生活できる。普通のことが物凄くありがたいことだと感じた。18日は震源が阿蘇から大分に移動していた。それでも震度3程度の揺れは続いた。1週間もすると、少々の揺れには動じなくなった。そして、揺れに慣れたせいか、震度を言い当てられるようになった。

日記を見ると、5月に入っても震度3から4の規模が発生している。記録があるから記憶も呼び出しやすい。この時の心境は、一度死んだと思えばなんだってできる!と気持ちを奮い立たせているようだった。2年経って忘れていた。

この時の気持ちを忘れず、頑張らないといけませんね。地震自体は負の要素かもしれませんけど、そこから得られる正の要素もたくさんありました。今後に活かすためにも、毎年この時期に、地震体験を思い出したいと思います。

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