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本当の優しさ、親切とは

10月15日は、たすけあいの日。「全国社会福祉協議会が1965(昭和40)年に制定。」
日常生活での助け合いや、地域社会でのボランティア活動を積極的な参加を呼びかける日です。不思議なことに、何故10月15日なのか?何故ひらがななのか?調べがつきません。ただ、こういうことを意識する日は有っていいと思います。

日常生活で、車椅子で横断歩道を渡る人、点字ブロックを頼りに歩行者天国の雑踏を歩く視覚障害者、手を差し伸べたいと思う場面は結構あります。けど、なぜか気恥ずかしくて行動に移せない…。そんなことってありますよね。

人に優しくとか親切にするって簡単なようで、なかなか出来ないものです。なぜでしょうね。「私って優しいでしょ」「私って親切な人でしょ」とかアピールしてるように見られはしないか?周りの反応を気にするのだと思うのです。その、自意識過剰が行動をためらわせる…。そう思いませんか?これが、災害時だと、自意識過剰のタガが外れてすぐに人助けに走れるってことありますよね。

閑話休題(それはさておき)、「親切」って漢字の見た目と意味が繋がりませんよね。親を切るってのがどうして優しくすることを表すのか?

そもそも、「親」を(おや)と捉えるから解らなくなるようです。(親しむ)と捉えるのが正解。「切」も(切る)と捉えることが多いのですが、「しきりに〜する」という意味もあるそうです。「切に願う」とか「切実な思い」とかは後者の意味でしょうね。

したがって、「親切」→「しきりに親しむ」と捉えると、優しく接するイメージで漢字と意味が繋がってきます。

同じような使われ方で、論語の中に「切切偲偲(せつせつしし)」という四文字熟語が出てきます。「切」を重ねると強調することになり、「しきりに」→「ていねいに」となり、「偲」には(励まし合う)という意味があるので、合わせて「しきりに、ていねいに励まし合う」となります。

さて、話を戻しましょう。人に親切にする、優しくするって難しいって話ですが、私には、本当の親切、優しさの定義があります。それと悟られない親切、優しさが本当の親切、優しさだと。

そう、思わせてくれたのは、島田洋七(お笑いコンビB&B)さんが書いた「佐賀のがばいばあちゃん」の一説です。

小学生のころ、走りに自信があった俺は、運動会ではヒーロー。 でも、仕事で忙しい母ちゃんは、俺の晴れ姿を見に来ることができなかった。

そして、ばあちゃんも来なかった。 年寄りの自分が行っても、 俺がかえって恥ずかしい思いをするのではないかと気にしていたようだった。

ばあちゃんが持たせてくれる弁当は、 運動会の日も変わらず、梅干とショウガだけがおかずの質素なもの。(ばあちゃんは必死になって家のニワトリに卵を産ませようとしたけど、ダメだったのだ)

クラスのみんなが家族といっしょにお弁当を食べに散っていくなか、 ひとり涙をこらえ、教室で自分の弁当を広げたときのことだった。 突然、担任の先生が教室に入ってきて俺に声をかけた。

「あのな、弁当取り替えてくれんか?先生、さっきから腹が痛くてな」

先生が言うには、 梅干とショウガが入っている俺の弁当はお腹にいいらしい。

取り替えてもらった先生の弁当には、 卵焼きにウィンナー、エビフライ・・・・・ それまでに見たこともない豪華なおかずを、俺は夢中で食べた。

翌年も、また翌年も、不思議なことに、俺の担任の先生は運動会の日になると腹痛を起こした。

六年生になって、ばあちゃんにこの話をすると、 ばあちゃんは涙ぐんで、こう言った。

「それは、先生がお前のためにわざとしてくれたことや。 人に気づかれないようにするのが、本当の優しさだ」 

それまで、俺は先生の腹痛の本当の意味にまったく気がつかなかった。

******(抜粋ここまで)

斯くありたいと思うのです。自然に、スマートに、ただただ相手を気遣い、相手にそれと気づかれずに親切にできる人になりたい。そんな姿って、ものすごくカッコよく見えるはず…

あっ、カッコいい自分を想像した時点で、自意識過剰ですね。まだまだ、その域は遠そうです。

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